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最高裁判所第一小法廷 平成2年(あ)885号 決定

本籍

東京都大田区中央四丁目五九五番地

住居

同世田谷区奥沢六丁目三一番一一-二〇三号

医師

髙木千枝子

昭和二年五月二六日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、平成二年七月二〇日東京高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から上告の申立があつたので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人船尾徹、同佐藤誠一の上告趣意は、違憲をいう点を含め、実質は量刑不当の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。

よつて、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 橋元四郎平 裁判官 大内恒夫 裁判官 四ツ谷巖 裁判官 大堀誠一)

平成二年(あ)第八八五号

上告趣意書(その一)

被告人 高木千枝子

右の者に対する所得税法違反被告上告事件について、左記のとおり上告趣意書を提出する。

一九九〇年一〇月一五日

弁護人 船尾徹

右同 佐藤誠一

最高裁判所第一小法廷 御中

一、本件第一審並びに原審の量刑判断は憲法第二五条に違反するのでその破棄を求める。また仮に、憲法第二五条に違反しない場合でも、刑事訴訟法第四一一条第二号に該当するので、職権による破棄を求めるものである。

二、本件に至る経緯

1、被告人は、医師であつた父の影響もあつて外科医を志し、医大に入学し、その後、当時世間一般では外国に留学することが困難な時期にあつて、アメリカに留学し医学を学び、帰国した後外科医として活動を始め、その三年後には独立して現在の医院を開業した。

その間、被告人はわきがの手術治療の分野に他の医師と共に新しい技法を開発した。その技法は、施術した患者に運動機能などの障害を残さないものである点、また毛根まで切除してしまわなくとも良い点等において、従前の技法より優れたものであり、被告人は、わきがに悩む多くの患者に福音を与えるべく、学会誌を通じ論文を発表する等、この技法の紹介に精力的に努めた。

しかしながら、その技法は一定程度高度な技術を要するため、この技法を用いることのできる医師は被告人をはじめとするごく限られた医師たちであつた。そのため、全国からわきがに悩む多くの患者が被告人の医院をたずねるようになるなど、被告人はわきが治療の分野で大きな成功を収めるに至つた。

以上のような状況の中で、被告人は自らの医師としての活動を通して、人知れぬ悩みから患者を解放し人生の福音を与えることに喜びを感じ、これを自らの天職とすら考えるに至つたが、より多くの患者を救済するには現在被告人が保有している設備では到底足りないことから、そのための設備を拡充すべく多大な資金を必要とすることになつた。

2、被告人はアメリカに留学していたころ知り合つたアメリカ人と結婚し、一人の息子をもうけたが、後その息子を夫に預け離婚することになるが、夫が息子の面倒をろくに見ようとはしなかつたため、結局被告人がこれを引き取ることになつた。

被告人は、自分自身の働きで、自らと息子の生活を支えて行かなければならなくなり、ろくに休むこともできなくなる等、被告人の仕事は多忙を極めるようになつた。休暇と言えば正月休みを取るだけであり、日曜日でさえ病院に出なければならないこともあつた。そのため被告人自身が息子の面倒を見ることも困難になり、やむを得ず家政婦を雇わねばならなかつた。

さらに、それまでアメリカに暮らしていた息子は容易に日本になじむことができなかつたために、当時年間一〇〇万円乃至二〇〇万円もの費用を要するアメリカンスクールに息子を入学させ、あるいは息子をアメリカに居住させるなどの二重生活を強いられることにもなつた。

このように被告人が息子のために尽くす費用も多くの負担となつたのである。

3、そのような被告人に対し、渋谷医師会から紹介された税理士は「だいたい渋谷医師会をみてても一〇〇〇万ぐらいの所得を出せばいいんだから、それ以上は無理をしなくてもいいんですよ」などと申し向け、あるいはまた被告人方に出入りしていた証券マンは「マル優でやる場合に自分一人ではできないからいろいろな名前を使つてやりなさい」と「アドバイス」をするなどしたことから、次第に被告人は納税における規範意識を鈍麻させるに至り、被告人の雇用する経理担当の看護婦ともども所得隠しを実行するようになつたのである。

三、被告人の経済的危機

1、被告人は、昭和五七年分乃至昭和六一年分の五ケ年分につき、既に修正申告を済ませ、本税・加算税・延滞税合計金一億二四〇九万四一〇〇円を納付済みであるが、被告人はこの費用を捻出するため、定期預金を解約し、また株券を譲渡するなどしたが、尚不足分があり、約八〇〇〇万円程の融資を受けてこれに充てた。この借財の現在残高は約七〇〇〇万円にのぼつている。

被告人の息子は、現在も大学に在学中でありしかもその上結婚をも控えている等、まだまだ被告人の財政的援助を必要としている。

2、このような経済的事情にある以上、被告人は今後もこれまで以上に医療活動に専念しなければならないのである。

しかるに、懲役一〇月罰金一八〇〇万円のこの有罪判決は被告人にとつてその死命を決してしまうのである。

即ち、右有罪判決が確定すれば、被告人は医道審議会の審議を経て少なくとも半年間の医療業務の停止を受けるであろうことは決定的である。

その結果、医療業務から遠ざかることとなれば、被告人の外科医として復帰できる見込みはあり得ない。相当程度のブランクがあつた場合、それまで蓄積してきた優秀な外科医としての勘や技能が低下し、それを回復させることは、若い医師であれば格別、被告人の様に既に六二才を越えた者にとつては到底望み得ないからである。

これは、被告人にとつて、その生き甲斐を奪い、わきがに悩む多くの患者から福音を奪うことになるが、それよりもなによりも、被告人のそしてまた被告人に頼つているその息子の経済生活の破綻を意味する。

3、このような結果を招来する本件の量刑判断が憲法の保障する生存権(憲法第二五条)に違反することは明らかである。また仮に憲法第二五条に違反しないとしても、その刑が甚だしく不当でありこれを破棄しないことは著しく正義に反するものであることは明らかである。

よつてその破棄を求めるものである。

以上

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